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【トルコ】イスタンブルの歴史地区  [トルコ]




イスタンブルの歴史地区は、トルコ最大の都市イスタンブルの旧市街にある歴史的建造物群に設定されたユネスコの世界遺産リスト登録物件(文化遺産)。日本では「イスタンブール(の)歴史地区」、「イスタンブール歴史地域」などとも表記される。

【トルコ】イスタンブルの歴史地区 .jpg

概要
イスタンブルの歴史地区は、4世紀以来東ローマ帝国の帝都コンスタンティノポリス(英語名コンスタンティノープル)が、15世紀からはオスマン帝国の帝都イスタンブル(別名コスタンティニエ)が位置した、現在のイスタンブルの旧市街地区に設定されている。

この町はアジア州のアナトリア半島とヨーロッパ州のバルカン半島を隔てるボスポラス海峡のヨーロッパ側にある半島に位置し、海峡を抜けて北に出れば黒海、南に抜ければエーゲ海に至る海上交通の要衝でもある。

紀元前7世紀頃、このイスタンブル旧市街地区に最初の都市をつくったのはギリシャ人入植者たちで、彼らの建てたビュザンティオンは旧市街のある半島の先端にあった。最古の城壁は、遺跡公園地区の北部、現在のトプカプ宮殿の城壁にアヤソフィアのあたりを加えた程度の広さしかなかった。古代ギリシアが古代ローマに組み込まれるとビュザンティオンもローマ都市となり、3世紀には城壁のすぐ側にヒッポドローム(競馬場)が建設された。

330年、ローマ帝国のコンスタンティヌス1世はローマに代わる首都としてビュザンティオンを選び、コンスタンティノポリスと改名。従来の城壁の2km西にコンスタンティヌスの城壁が築かれ、市域を大幅に拡張してローマに匹敵する大都市を建設した。

同じ世紀の末にはローマ帝国の東西分裂によって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、ヴァレンス水道橋(378年完成)やハギア・ソフィア大聖堂(537年竣工)などの、現存する優れた建造物が次々に建設された。413年にはテオドシウスの城壁が完成、市域をコンスタンティヌスの城壁からさらに西に2km伸ばし、堅固な城壁と海によって囲まれ、壮麗な宮殿と数百にも及ぶ教会が立ち並ぶ大都市コンスタンティノポリスが完成する。その人口は東ローマ帝国の盛衰にともなって上下するが、大城壁の堅い守りによって、1204年の十字軍による攻略まで外敵による占領を受けることはなかった。

1453年のコンスタンティノポリス陥落によって東ローマ帝国が最終的に滅ぶと、新たな支配者であるオスマン帝国は、ハギア・ソフィア大聖堂やパントクラトール修道院付属教会、城壁近くのコーラ修道院などのキリスト教の教会をモスクに転用した。このとき、モザイクの壁画は漆喰に塗りこめられたので、かえって20世紀に漆喰がはがされるまで無事に保存されることになる。

また、古代ビュザンティオン市の跡地にトプカプ宮殿が造営され、16世紀にはビザンティン建築の精華を十分に吸収したムスリム(イスラム教徒)の建築家ミマール・スィナンによってスレイマニエ・モスクなど、すぐれたトルコ・イスラム建築が建てられた。17世紀にはハギア・ソフィア大聖堂あらためアヤソフィア・モスクと並ぶようにスルタンアフメト・モスク(通称ブルー・モスク)が建設されるなど、モスクのミナレットと大ドームが林立するイスタンブルの歴史地区の美しい景観がはぐくまれていった。

イスタンブルはオスマン帝国の繁栄のもと都市化が進み、市街地は城壁や海を越えて広がっていった。古くからの市街は19世紀以降、人口稠密な旧市街地区となっていき、政府機能も市街の外に離れる。

しかし、かつての宮殿やモスクはよく保存され、20世紀に成立したトルコ共和国のもとで保存と修復、公開が行われている。トルコは1923年から始めた旧市街整備の際には、旧市街に幹線道路を通して文化財の損壊を招いたこともあったが、その後の整備はそうした反省に立って行われている。

現在では世界中から旅行者を引き寄せる大観光地となり、旧刑務所をホテル、旧病院を高級レストランに転用するなど、一部の歴史的建造物の活用も行われている。

(Quoted from Wikipedia)




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【トルコ】イスタンブル  [トルコ]




イスタンブル(ラテン語: Constantinopolisコンスタンティーノポリス、英語: Istanbul)はトルコ最大の都市で、トルコの経済、文化、歴史の中心地である。

【トルコ】イスタンブル.jpg

日本では一般に「イスタンブール」と呼ばれることが多い。人口は1,350万人を擁しバルカン半島では最大、ヨーロッパでは最大規模の都市圏 (en) の一つで、イスタンブル市域の人口は世界の大都市の市域人口の上位に含まれている。 イスタンブルはトルコに16ある大都市自治体(英語版)(トルコ語: Anakent)の1つで 5,343km2 (2,063 sq mi) の広大なエリアはイスタンブル県と同一の広がりを持ち、イスタンブルは同県の県都である。同都市はトルコ北西部に位置し、マルマラ海と黒海を結ぶ世界でも最も混雑する航路の一つであるボスポラス海峡を挟んで大陸間に股がった都市である。市域はボスポラス海峡を挟んで東のアジア(アナトリア半島)側と西のヨーロッパ(トラキア地方)側両方に拡がり、西側の市域は金角湾で南北に分かれる。2大陸にまたがる大都市であり、アジアの最も西にある都市でもある。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1はアジア側に居住している。


サライブルヌ(英語版)の岬に紀元前660年にビュザンティオンとして創建され、現在では歴史上最も重要な都市の一つとしてイスタンブルは知られている。330年にコンスタンティノープルとして再建されて以降およそ16世紀の間、ローマ帝国 (330-395)、ビザンティン (395-1204, 1261-1453)、ラテン帝国 (1204-1261)、オスマン帝国 (1453-1922) と4つの帝国の首都であった[8][9]。1453年にオスマン帝国により都市が征服されコンスタンティノープルの陥落が起こる以前のローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要であったが、征服後はイスラームの中心やオスマンのカリフの中心に変わった。トルコ共和国がアンカラを新しい首都に制定したが、宮殿や帝国のモスクは今でもイスタンブルの丘に見ることが出来、イスタンブルの以前の中心的な役割を想起させる遺産となっている。イスタンブルは歴史上重要なシルクロードに沿った戦略的な場所に位置し、ヨーロッパと中東への鉄道網と黒海と地中海を結ぶ唯一の航路は1923年のトルコ共和国の設立を差し引いても、幅広い人々を育むのに役立っている。戦間期には新しい首都のために見落とされたが、その後直ぐにイスタンブルはその傑出した部分の多くを取り戻している。アナトリア中から移住者がイスタンブルやその周辺に集まり居住地が広まり、1950年代以来人口は10倍に増加している。20世紀後半には芸術祭が確立し、その間にインフラが改善され複合的な交通網が整備されて行った。

欧州文化首都であった2010年にはイスタンブルに約700万人の海外からの観光客が訪れ、世界で10番目に最もポピュラーな観光地であった。イスタンブルの最大の呼び物は今でも残されている歴史の中心で、部分的にユネスコの世界遺産に登録されているが、文化やエンタテインメントの中心は市内の天然の良港であるベイオール(英語版)地区の金角湾周辺に見られる。イスタンブルは世界都市と見なされ、多くのトルコの企業やメディアの拠点があり、トルコの国内総生産の4分の1以上を占めている。 2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第37位の都市と評価された。 新しい活力と急速な経済成長にオリンピックを利用することを希望しイスタンブルは2020年夏季オリンピックの招致活動 (en) を行っている。



呼称
古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街である[19]。最初に知られている都市の名称はビザンティウムByzantium(ビザンティオン、Byzantion)でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建したビザス(英語版)の名が元になっている[注釈 2][25]。コンスタンティヌス1世の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し都市は「コンスタンティンの都市」を意味するコンスタンティノポリス Constantinopolis(コンスタンティノープル Constantinople)と名付けられ、広く知られる名称となった。ギリシア語では現在、Κωνσταντινο?πολη 「コンスタンディヌーポリ」と呼ばれている。ラテン語由来の名であるコンスタンティノポリスに基くが、綴りに若干の変化があり、読みも現代ギリシャ語のものとなっている。コンスタンティヌスは新ローマを意味する Nea Roma の名称を広めようとしたが、これは広く使われることはなかった[26]。

コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、オスマン語ではコンスタンティニイェ Kostantiniyye はオスマン支配期に主に使われた名称である。それにも関わらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル Constantinople を使うことは今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされている。19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていた。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを言い表すのに使っていたが、スタンブール Stamboul の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島を言い表していた。ペラ Pera(ギリシャ語では横切ってなどの意味)は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていたがトルコ人はベイオール(英語版)を使っており今日でも使われている。 イスラムの街やイスラムで満たされたを意味するイスラムボル Islambol は時折、イスタンブルを表す口語として使われオスマンが硬貨の一部にも刻印されているが[29]、これが現代の名称であるイスタンブルの前の名称であると信じることは誤りでイスラムボルの以前から存在しオスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から存在していた。 イスタンブル の語源は一説に中世ギリシャ語(英語版)の表現で「都市で」や「都市に」を意味する。これは当時、イスタンブル周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を「都心」"the City"と称するのと同じである。他のものではコンスタンティノープル Constantinople から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もある。

(Quoted from Wikipedia)


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【トルコ】カッパドキア  [トルコ]




カッパドキア(ラテン語: Cappadocia)は中央アジアの歴史的地方、あるいはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。
古代の地理においてCappadocia (「美しい馬の地」を意味するペルシア語:Katpatukに由来、トルコ語:Kapadokya、ギリシア語:Καππαδοκ?α)は、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウロス山脈から黒海)までの全域をなしていた。この意味でのカッパドキアは、南ではタウロス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた。だが、その境界を正確に定義することは不可能である。その国の多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。

由来
カッパドキアのカルスト状の山
カッパドキアという呼称の最初の記録は、紀元前6世紀後半に遡る。そこでは、2人のアケメネス朝初期の王ダレイオス1世とクセルクセス1世について3言語で書かれた碑文に、ペルシア帝国を構成する一地方(古代ペルシア語でdahyu-「州」)として現れている。地方についてのこれらの一覧の中で、古代ペルシア語での名称はKatpatukaであるが、ペルシア固有の言葉でないことは明らかである。エラム語とアッカド語版の碑文も、類似の名称を含んでいる。
ヘロドトスは、カッパドキア人という名称はペルシア人(しかるに、彼らはギリシア人によって「シリア人」「白いシリア人」(Leucosyri)と呼ばれた)によって用いられたと伝えている。 彼が言及したカッパドキアの部族の一つはw:en:Moschoiであり、彼らはフラウィウス・ヨセフスによって、旧約聖書の人物でヤペテの息子w:en:Meshech に結びつけられた。「そして、Mosocheni 人は Mosochによって興され、今や彼らはカッパドキア人である。」『古代ユダヤ史』 I:6。『ミシュナー』のw:en:Ketubot 13:11も参照。
ペルシア帝国後期の皇帝の支配のもとで、彼らは2つのサトラペイア、すなわち行政区に分割された。中央と内陸の部分を含む一方に対して、ギリシアの地理学者によってカッパドキアの名前が使われ続け、そして他方はポントスと呼ばれた。この分割はクセノフォンの時代以前に既になされていた。 ペルシア帝国滅亡後も2つの州は分離され続けたので、両者の区別は恒久化された。カッパドキアは内陸の州(時に大カッパドキアと呼ばれる)に限定され、これのみが本稿の焦点となる。
カッパドキア王国はストラボンの時代すなわち紀元前1世紀にはまだ名目上は独立国として存在していた。 キリキアはその国全体の首都であるカエサレア・マザカ(現在のカイセリ)が位置する地域に与えられた名前である。ストラボンは、カッパドキアの中で2つの都市のみが名を挙げるにあたいすると考えた。それは カエサレア(元はマザカとして知られた)とテュアナw:en:Tyanaで、タウルス山脈の麓から遠くない位置にあった。

【トルコ】カッパドキア.JPG

歴史
カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となった。
ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人の衰退によって、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態においた、一種の封建貴族の軍政に委ねられた。これは後に、彼らをして、外国の奴隷制度に適した者とした。
カッパドキアはアケメネス朝のダレイオス1世によって設置された区画の中で第3サトラペイアに含まれた。しかし、誰もその地方全体に対して明確に至上な存在ではなく、ペルシア王に対してほぼ完全に従属した地元の支配者たちによる統治が長く続いた。
紀元前4世紀中頃にはサトラップのダタメスによって徹底的に抑えられた。後に彼はペルシア王に反旗を翻したものの、敗死した。カッパドキアは、一人の統治者アリアラテス1世のもとで独立を回復した。彼はアレクサンドロス3世と同時代の人であり、アケメネス朝が滅びた後も、カッパドキアの王位を維持した。
この地域にアレクサンドロスが訪れることはなかった。彼は、小アジアから出発する前にアリアラテスによってなされた彼の統治権への従属的承認で満足した。そして、土着王朝の継続はアレクサンドロスの死後の短い期間のみ中断された。なぜならその時、帝国の全体的な分割の中で、王国はアリアラテスの許可を得ることなくエウメネスのものとなったからだ。彼の権利は、アリアラテスを磔刑にした摂政のペルディッカスによって紀元前322年に履行された。しかしエウメネスの死をもたらした紛争の中で、アリアラテスの息子は遺産を回復し、それを後継者の血統に残した。
アリアラテス4世の治下に、カッパドキアは共和政ローマとの関係を持つにいたった。最初はセレウコス朝のアンティオコス3世の主張を支持し敵対者として、それからマケドニア(アンティゴノス朝)王ペルセウスに対抗する同盟者としてである。
王たちはこれ以後、それまで折々に従属してきたセレウコス朝シリアに対抗して、共和政ローマと同盟した。アリアラテス5世はローマのプロコンスル(前執政官)プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス(en)とともにアッタロス朝(ペルガモン王国)の王位主張者アリストニコス(エウメネス3世に対して軍を進めたが、彼らの軍は殲滅された(紀元前130年)。彼の死後の混乱は最後には、勃興するポントス王国の介入と王朝の崩壊に終る陰謀と戦争を招いた。

カッパドキア人は、ポントス王ミトリダテス6世に対してローマの支援を受けつつ、地元の後継領主にアリオバルザネス1世を選任した(紀元前93年)が、第三次ミトリダテス戦争でミトリダテス6世が敗死し、ティグラネス2世(アルメニア王)がローマへ屈服するまで、彼の支配は確立されなかった。
ローマの内戦中には、カッパドキアはグナエウス・ポンペイウスに組し、次にはガイウス・ユリウス・カエサルにつき、またマルクス・アントニウスに従い、そして彼に対抗した。アリオバルザネス王朝は終わりを迎え、その代わりにアルケラオスという人物が、始めはアントニウスの、次に初代ローマ皇帝アウグストゥスの支援によって統治した。この従属的独立は紀元17年まで維持されたが、ティベリウス帝の時代、アルケラオス王の不名誉な死とともに、カッパドキアはついにローマの属州となった。
カッパドキア属州は州都をカエサレア(現:カイセリ)に置き、1世紀の後半にはポントゥスやアルメニア・インフェリオルの領域の一部も併せられた。ローマ帝国にとって最北東の属州であり、2個軍団といくつかのアウクシリアが常駐した。
284年に皇帝となったディオクレティアヌスは東方属州の再編を行い、カッパドキア属州は元々の属州面積に戻された。330年、カッパドキア属州の東半分がアルメニアに新たに設置された属州へ合併させるため分離された。371年、ウァレンス帝はさらにカッパドキア属州の南西部をカッパドキア・セクンダ(Cappadocia Secunda)として分離させ、残った北東部はカッパドキア・プリマ(Cappadocia Prima)と名付けられた。

カッパドキアはいくつかの地下都市を有しており、主として初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用された。4世紀のカッパドキアの神父たちは、初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在であった。
ローマ帝国が分裂するとカッパドキアは東ローマ帝国に属した。535年にユスティニアヌス1世はプリマとセクンダの2つの属州を再び統一のカッパドキア属州として統合した。その後、イサウリア人による襲撃を受け、7世紀前半までにカッパドキア属州はサーサーン朝の支配下へ入ったが、サーサーン朝がイスラム勢力によって滅ぼされると、カッパドキアは東ローマ帝国の領土に再び組み入れられて、アナトリコン(Anatolikon)とアルメニアコン(Armeniakon)の2つのテマ制に再編された。
1071年のマラズギルトの戦いで東ローマ帝国を破ったセルジューク朝がカッパドキアを支配。セルジューク朝の崩壊後、一時期はKaramano?luが支配したが、15世紀までにオスマン朝がカッパドキアを領有し、現在はトルコ共和国の領土内にある。


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【トルコ】パムッカレ  [トルコ]




ヒエラポリス-パムッカレはトルコ西部・デニズリ県にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)の登録名。パムッカレは石灰華段丘からなる丘陵地の名前であり、2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在した。現在は遺跡が残る。

パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによる。
二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となる。その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出したものである。
棚田の畦の部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着して次第に堤のように成長する。これは温水が畦を越流する時に石灰分の沈積が化学的に加速するためでもある。このような景観が約200mの高さにわたって形成されている。規模はずっと小さいが、同種の微地形が鍾乳洞内にもみられることがあり、これを畦石池という。

【トルコ】パムッカレ.jpg

ヒエラポリス遺跡
パムッカレの石灰華段丘の一番上にある遺跡。ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。ローマ帝国時代にも地震で破壊されるが、その後復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。ローマ劇場、ローマ浴場などが残る。


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